金魚鉢のある風景

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| - | 2009.11.04 Wednesday | - |


El Espiritu De La Colmena (The Spirit of the Beehive) : 1940年代スペインの小さな村を舞台とした静かな映画。村に巡回映画がやってくる。映画屋のオヤジは「今回のは今までで一番凄い映画だよ」と言う。子供は映画屋のトラックに群がり、興奮する。上映されたのは「フランケンシュタイン」だ。多くの子供達が息をのんでスクリーンに見入る。水辺の少女がフランケンシュタインに花をあげ、フランケンシュタインが喜ぶ場面がじっくりながれる。そしてその少女がぐったりとして死んでいる場面...。映画を見ていたアナは、姉のイザベラにきく。「なんで子供とフランケンシュタインは殺されたの?」そしてイザベラは答えた。「本当は殺されてないんだよ。フランケンシュタインは、本当は精霊なんだよ。」そして二人は、イザベラが精霊を見たという町はずれの井戸のある空き家へと行く。アナはイザベラの嘘を信じて、毎日井戸のある廃屋へ通い始める。そんなある日、廃屋に怪我をした男をみつける。アナは一生懸命その男の面倒を見るが、その男は血の跡だけを残して姿を消す。そして、アナが廃屋に通っているのを父親に見られてしまう。アナは走って逃げ去ったまま、行方不明になる...。 

夜の内緒話。目を見開いた二人の少女。姉は妹に嘘をついて真剣にからかう。そして妹はその嘘を真剣に信じる。子供同士の嘘は、何故か強い説得力を持っている。子供が人に嘘を語る時、自らもその嘘の世界に浸っているようである。本当は見ていないのに、嘘を語っているそのとき、本気で見たと自らをも思い込ませる。語る時のその目は真剣だ。そして聞く方も真剣である。しかしながら、映画を見ている観客の方には、姉の嘘が分かる。そこに、姉イザベラの不気味な「意地悪」を見る。イザベラは死んだフリをしてアナを驚かせる。猫を抱きしめる時に、何の悪気もなく突然猫の首を絞めてみたくなる。そして傷ついた指から滲む血を唇に塗ってみたりする。この無意識で衝動的な行為を、大人となった観客の視点から目の当たりにした時、ホラーのような不気味さを感じる。しかし、次の瞬間にふと思う。ああ、自分もそんな無意識の衝動に身体を奪われることがあったと。

そしてアナを見る時、姉の話を真に受ける純粋さを感じると同時に、井戸の周りで精霊が出るようなおまじないの仕草をひっそりしてみたり、夜中に家を抜け出してやはり井戸に行くようなオカルト的行為にやはり不気味さを感じる。精霊の存在をすっかり信じたアナは、また同時に神秘的な物事の一つである「死」にも囚われる。姉のイザベラと線路に耳を当て、汽車が来るのを感じる場面では、イザベラがすぐに線路からよけたのに、アナは汽車をじっと見つめたまま、線路の上に立ちすくむ。イザベラが「アナ!」と叫んだ時、やっと我に返る。森でさまよった時、父に教えられた毒キノコをみつけて、それにそっと触れてみる...。

この映画は、さりげなく、それぞれの人物からの視点を提示する。姉のイザベラから見た妹のアナ、アナから見たイザベラ、子供から見た親、親から見た子供...。そしてそれぞれの間に理解し得ない闇と、また家族としての無条件の繋がりを見る。アナはある日ふと、両親の古いアルバムの中に「人嫌いのあなたに」と書かれた母の写真を見つける。両親の間に何かあるのではないか...誰でも子供のころ、一度はふと囚われる闇のような疑問。映画の中では何も説明されない。しかしながら、その母は冒頭で、誰とも分からない相手(恋人と思われる)に長い長い手紙を書いている。「あなたに届くか分からないけど。。」とつぶやいて。それは、彼女の夫宛でないのは明らかである。そして夫はミツバチの行動の観察に心を奪われる。働くハチを悲観的に見つめる。

町のどこでも見つけることのできる身近なミツバチ。甘い蜜を生産すると同時に、人の命を奪う毒がある。何の疑問も抱かず、機械のように働き、その社会を上手く機能させている。静かにささやきながら..。
| 映画感想 | 2009.10.31 Saturday 15:04 | comments(31) |



森崎偏陸(もりさき・へんりっく)は本名である。その芸名のような虚構感の満ちた名前そのものが彼を体現しているようである。この男には3人の母がいる。生みの母、育ての母、そして戸籍上の母。へんりっくは森崎家で生まれたが、生まれてすぐ、森崎家の親戚である永田家に引き取られる。その事情は明らかでない。そして高校生の時、へんりっくは雑誌に投稿した歌が寺山の目に留まり、家出をして天井桟敷の事務所に住み込むようになる。脱ぎっぷりが良かったことから、「ローラ」「少年のための映画入門」等の実験映画で使われるようになり、また寺山の子弟として記録、助監督を勤め、舞台では照明からグラフィックデザイン、演出助手等をてがけた。寺山の死後、へんりっくは寺山家の養子となり、戸籍上で正式に寺山の弟となった。映画の助監督、荒木経惟の写真集のブックデザイン、劇場ポスターの製作を仕事とする傍ら、「ローラ」をはじめとする寺山作品の出演、演出をいまでも勤めている。映画「へんりっく」は、その森崎偏陸の今の姿を淡々と写すドキュメンタリーである。

映画「ローラ」の主人公に扮するへんりっくは、スクリーンの内と外を行き来する。スクリーンの中の女達にそそのかされ、観客席からスクリーンの中に引き込まれて行き、スクリーンの中で服を根こそぎはぎ取られ、真っ裸になってスクリーンの外に逃げ帰ってくる。現実世界と虚構世界の往復を、へんりっくは何度も繰り返して来た。

そしてこのドキュメンタリーの中のへんりっくは、戸籍上の「寺山修司の弟」、すなわち寺山はつの息子としての顔と、育ての親、永田喜久子を介護する永田家の息子としての顔を見せる。また、「寺山修司の弟」という形容詞のついた「へんりっく」としての顔と、寺山とは関係の無い仕事もてがける森崎偏陸としての顔。虚構と現実の世界を行き来する「ローラ」の主人公と、3種類の母の間を行き来するへんりっく、寺山の世界と自分個人の世界を行き来するへんりっく、はどこか姿が重なる。今は亡き「寺山修司」という男の亡霊的な世界で裸になり、それを楽しみながらも、寺山の世界からいっぽ外に踏み出すと「寺山修司の弟」という形容詞のつく現実に虚しさも覚える。

寺山修司と関わった人物は何千人もいる。天井桟敷のメンバーには有能な人間も多く、森崎偏陸も「寺山修司の弟」という形容詞がつかなくとも、デザイナーや演出家として相当に有能な人物である。しかし、それらの有能な人間達は、個性的な芸名を持ち、天井桟敷の中でこそ活き活きと輝きはしたが、個人としては無色となってしまった。とくに天井桟敷の中心でながく関わっていた人間は、作品に出演するのみならず、裏方の仕事も何でもこなし、だからこそ有能になったとも言えるが、生活の中心が寺山という状態、寺山の言う「職業―寺山修司―」がメンバーにも当てはまる状態となっていた。寺山亡き今でも、どこに行っても「寺山修司の」「天井桟敷の」という形容詞が自分の名前の頭につく。森崎ははっきりと「寺山地獄」とこの状態を形容する。

その中で唯一、天井桟敷の外から寺山ワールドと関わって来た笹目浩之(ささめ・ひろゆき)は現在、寺山修司作品のプロデュース、管理を代表して行っている。森崎は、天井桟敷の外にいて、地に足をつけて寺山作品に関われるからこそ、その笹目をプロデューサーとしてポスターハリスカンパニー(寺山作品の管理等を行っている)の代表にした。笹目は、天井桟敷の元団員じゃなくたって、寺山作品を舞台でもっとやればいいし、そうなるように願ってると言う。天井桟敷あっての寺山作品ではないか、天井桟敷のものがオリジナルだ、と反発の声も出そうだが、例えばシェイクスピア作品の舞台を考えれば分かるが、どのようなグループに上演、アレンジされ、どんなに作品が一般化されても、シェイクスピア作品はシェイクスピア作品と語られる強さを持っていて、笹目は、寺山作品にもその強さがあるのだと考えているのだろう。今でも天井桟敷の元団員が、寺山修司の亡霊的世界に取り憑かれてる中で...。

劇中で、へんりっくは誰よりも率先して舞台の設置、演出の作業をしていた。頭のオカシイ人のように振る舞うへんりっくがいるかと思うと、一方で演出家、また森崎偏陸という個人としての地に足をつけた真剣で落ち着いた立ち振る舞いも見せる。寺山の死後、森崎は自分は「人とコミュニケーションが出来ない」と気づいたという。寺山がいて、寺山の世界に浸っていた時には、寺山の心のあるものだけ読んでいれば良かった。そして寺山の意思を言語を通さずよく理解していた。しかし、寺山の死後、寺山のいない現実世界に戻ってみると、自分の考えを持つこと、そしてそれを言語化する力が衰弱していることに気がつく。そして「話す」ことが再び可能になった森崎は、自分の言葉で寺山ワールドを客観的に分析する。そして語る。そして寺山の亡霊から逃れようと活動する。一方で寺山世界の陶酔感を楽しみながらも。

このドキュメンタリーには「山ちゃん」という人物がよく出てくる。小太りの中年男で、森崎に料理を作ったり、森崎の体にベタベタと触れ、森崎のペニスを鷲掴みしてカメラに曝すような人物である。映画を見ているだけでは森崎との関係がよく分からないが、トークショーでの話によると、この山ちゃんなる男性は、森崎の家に住み着いている「お母さんのような人」らしい。石川監督が「へんりっくさんにとって、かけがえの無い存在」と言った時には、森崎はそれをきっぱりと否定して、本当にかけがえの無い存在というのは、松村禎三さんのような人だという(松村は映画音楽家で、森崎は松村の音楽助手という仕事を通じながら、寺山には無い多くのものを学んだらしい)。

冗談みたいな会話の中でも否定することは否定し、言い換えるべき所は言い換える。虚構と現実を何度も行き来しているからこそ、何が事実でそうでないか、物事の本質を捉える鋭い目を森崎は持つようになったのかもしれない。そして、いちど思考を言語化することを忘れたからこそ、その能力を取り戻した時に、自分の感情、思考に対して最も適切な言葉は何であるのかという問題に対してより敏感になったのかも知れない。劇中でもトークショーでも、寺山作品の中の姿とは打って変わって、柔らかい物腰の中に鋭さを持っていた森崎の姿が印象的だった。

そしてこの映画そのものの完成度について言えば、それほど高くなかったように思う。石川監督のインタビューを見ればそれが意図的だったことは分かるが、作品の中で人物の説明がまったくなされないので、全く誰が誰かよく分からない。先の山ちゃんについて言えば、私はてっきり、森崎が山ちゃんの家に居候しているのだと思い込んでいた。この文章自体も、殆どの部分はトークショーの方からの情報をもとにしている。時々、白黒になるという演出も不必要だったように思う。森崎はインタビューで"寺山というフィルターなしで、観客にこの映画はどう見えるのか。そこにとても興味がある。“透明人間のへんりっく”はどう見えるのか?"と話しているが、ここまで説明が不足していると、上記の山ちゃんの件のように、森崎とその周辺の人間関係が全く把握出来ない状態となり、「寺山というフィルター」の無い素の森崎をみるより、誤解に満ち満ちた森崎像が観客の中で形成されてしまう。そういった意味では、森崎偏陸という人物を記録した一つの資料という価値しか持たないだろう。説明を加えて初めて生きてくるような映画であった。(機会があれば、トークショーのある日に見てください)

| 映画感想 | 2009.10.31 Saturday 11:30 | comments(0) |
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